February 27, 2007

悪くない世界と悪くない人生

ちと古いですが、すごく、琴線に触れるBLOGエントリを見つけたので。
やられたと思うほど、本質を見事に纏めてあった。

断片部:オーウェル的になる方法
ジョージオーウェルの言う「ディーセント decent」とは何だべや?というお話。

そこを貫く一本の線が存在する。それは"decent"という形容詞である。「礼儀正しい、ちゃんとした、まともな、上品な、見苦しくない、まあまあの、悪くない」といった意味だが、彼の評論にはこの形容詞がしばしば使われる。ここに「オーウェル的な」、という言葉のもう一つの意味があると思う。

ああ、なるほどね。と、思った。Decent か。Good でも Justice でもなく、もっとささやかで個人的だが、Preference よりも一般的な何か。

そしてTezさんは、オーウェルの価値観を続けてこう書く。

・ 労働者を劣悪な条件で働かせるのは、ディーセントではない。
・ 秘密警察はディーセントではない。
・ うまいビールを出すパブはディーセントである。
・ 拷問はディーセントではない。
・ 濃い紅茶はうすい紅茶よりもディーセントで、
  砂糖を入れないほうが入れるのよりもディーセントである。
・ クリスマスにささやかなご馳走を食べることは
  ディーセントな暮らしに欠かせない。

なるほど、そういうことだ。闘争でもなく、服従でもない。いうなれば、「世界」と「私」が対等な関係であるための紳士協定。私もジョージオーウェルの(特にエッセイの)ファンなんですが、その根っこで共感したものは、きっとそういうことなんだろう。

そういえば、父親がイギリスの法律の歴史の勉強をしていたせいか、家の本棚にあったオーウェルの本を覚えている。そういう親からそういう浮世離れした何かを受け継いでいるんだろう。その辺が、私が一見したところ「温厚」とか誤解される所以なのかもしれない。

そして、何よりも 「この地球上の人生は生きるに値するものであり、人類は、確かに汚いところや愚かしいところがあるとしても、だいたいにおいてまともな(ディーセント)生きものである」。

上のような話を読むと、しみじみと、なにはともあれ「ディーセント」な人間でいたいと自分が思っているのに気が付く。その一線はいつも心のどっかにあって、それを越えてまで欲に生きたいとも思えないらしい。

不自由で息苦しい世界に穴を開けるのがこれらの取るに足らない、 しかしディーセントな人生には欠かせないものたちである。

そして、良い漫画を読める環境は、私にとってディーセントなものの一つなんだろう。取るに足りない慰みでもありながら、それ無しで人生に意味を見出すことも出来ないもの。
私にとって人生と言うのは、仰々しく高価な美術品ではなく、そういう小さな玩具のモザイク模様だ。それだからこそ退屈な世界もまたいとおしい。


そう。グローバル社会論でも、格差社会についても、著作権の制約についても、極論は大抵どっちもおかしくなる。私の価値観の根っこに置くべきは 「その考えはディーセントか?」 という一言なんだろうと思う。

オーウェルが使うディーセントは結局、「人間らしい」に回収される。人は善くあらねばならない。しかし善くあろうとしすぎて高みから人を見下してはならず、「地をはう虫の目」の視線も大事にしなければならない。

働き者が報われないのはディーセントではないし、
全ての権利が奪われる人間が出るのもディーセントではない。
作者が報われないようなシステムはディーセントではないし、
パロディが許されないような世界もディーセントではない。

何が、わたしとあなたにとって「ディーセント」なのか。
その感覚の共有のことを「コモンセンス」というのだろう。
それは「常識」とは違う。知識ではなくて、センスなのだから。

参考:私の引用したのは、Tezさんの
ユウガタ側のサイトです。
アケガタのサイトが正式領域。
なお、Tezさん、HNまちがえてスミマセンっッッッッッッ!

ついでの参考:大江健三郎 ノーベル賞受賞記念講演 『あいまいな日本の私
こっちは大江センセイらしく色々ぼかしながらの曖昧な講演ですが、大雑把には「ディーセントな日本人」を目指したいね、というお話・・・・かなあ?





Posted by Semiprivate February 27, 2007 02:12 AM | Trackback送信

Comments

どうも、言及していただいてありがとうございます。
web拍手で感想をお伝えしようと思ったのですが、纏め切れなくて。

>「世界」と「私」が対等な関係であるための紳士協定
これは興味深い表現です。オーウェルは自分の世界に引き篭もることなく、かといって現実に屈服することもなく、怒ったり悲しんだりしながら、でもどこか楽しそうにしている人という感じがするんですが、この表現は言い得て妙であると思いました。

>何が、わたしとあなたにとって「ディーセント」なのか。
>その感覚の共有のことを「コモンセンス」というのだろう。
文章を拝読して、さらに改めて自分の文章を読み返して思ったのですが、ディーセントな人生に欠かせないもの(あったほうがいいもの)が人によって全く異なるということが、現世の生き難さにつながっているのかなあと。

じゃあ、少しは生きやすくするにはどうするのだ、ということになると、おっしゃるように「コモンセンス」が必要になるのでしょう。
そのためには、その場その場で(何が「ディーセント」かという)すりあわせを行い続けるしかないのだと思います。つまり「私にAが必要なように、彼の人生にはBが必要なのだ」ということを理解しあうこと。

「そんなくだらないガラスの文鎮は必要ない!」とかディーセンシーからは程遠い(doubleplusundecent)ことをいう奴がきっといるんでしょうけれども。

長々とすみません。お邪魔しました。

Posted by: Tez at February 28, 2007 07:04 PM
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ありがとうございます&HN間違えて申し訳ございません
orz
暗い世界の人間なんで、アケガタサイドはまぶしいっす!

>人によって全く異なるということが
そうですね。preferenceとdecentの境は、必ずしも明白ではない。というか、分析的に見れば分けようが無い。
本当は分析的に分けられない矛盾を理解して飲み込んで、あえてなお言葉を止めないことがDecentとCommon senseに不可欠な要素なんじゃないかと思います。

>「そんなくだらないガラスの文鎮は必要ない!」
「じゃあ、ガラスの文鎮の必要性について一緒に考えてみようか、紅茶でも飲みながら」と笑って言い返せるようになったら、それがディーセントな人生なんだろうなと思います。まだまだ修行が足りなくてその領域には至りませんが。

Posted by: 三等兵 at February 28, 2007 11:09 PM
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