帰ってテレビを見ていたら、また「キレた高校生」の話がニュースになっていた。
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・同級生を刺して、そこまでの心境を日記サイトに挙げていた
・それを「犯行予告」として報道していた
・「サイコ」のマンガについて日記で触れていたことをクローズアップしている
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というところか。
今回はゲームやっていない人なので「ゲーム脳」云々はさすがに言い出さないが、
なんか日記で一箇所でもゲームに触れていたらゲーム脳といいだしたんだろうなあ。
なんか、そういう 「親御さん達が喜びそうな理由付け」 に、私もいい加減ウンザリしているので私なりのコメントをしてみようと思った。
実際、私も、10年前の自分よりも気が短くなっているような気がしてならない。
色々と要らん事考える性分なので、躁鬱の波ある人間だし、
ようするに、ひとごとでないのだ。
*
ゲームが悪い。アニメが悪い。暴力的なメディアが悪い。
そういう説明をすると気が楽になる。特に、子供の親だったりしたら。
そういう心理は理解はできる。
そもそも、その偏見を完全に払拭できるようなデータが出せるわけがない。
実際、「完全に相関がない」と断言できはしないと思う。まあ、どんな反証も絶対の断言できないのは原理的に当たり前だが。
だが、順序が違うだろうとは推測できる。
暴力的なメディアがうける => ストレス
と考えるよりも
ストレス => 暴力的なメディアがうける
と考えたほうが自然だろうなーと思う。
では、何がストレスを生んでいるのか?
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エドワード・ホール の「かくれた次元」
という古典的な名著がある。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622004631/249-5053950-4569913
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0213.html
すごく大雑把に言うと、「文化」における人間の間の距離と行動についての分析をしてみた本だ。
そのなかに、ネズミの分布密度とストレスによる行動を観察した研究の要約が引用されていた。
たしか70年代の研究だったと思う。
本が手元にないのでちょっとあやふやだが、以下のような実験結果が示されていた
・動物の分布密度が高くなると、行動に異常パターンが現れる。
-無闇に凶暴な行動を取る個体が現れる
-性行動において相手を噛む等「サディスト」の個体が現れる
-見境なく活発すぎる性行動を取る個体が現れる
-逆に性行動を避ける引きこもり状態の個体が現れる
-身づくろいや巣の維持などができなく個体が現れる
まあ、そんな感じに、色んなパターンに激しく分かれていく、というデータだ。
こういうデータを見ると、巷で
「若者の困った行動」 「ゲームの影響」
とか言われているものそのものだよなあ、と思う。
我々人間様の行動も、「哲学的」とか「文化的」なレベルじゃなくて、「哺乳類の一般的な行動」で説明できてしまう部分は多い。・・・しかしまあ、身も蓋もないな。
これらの行動は「餌が足りない」とかの、一次的な身体理由によるものじゃなくて、
同種の生物が密集することによって「ストレス」が増加して
副腎皮質ホルモンなんかのバランスが崩れてくるものによるのだという。
つまり、「アレルギー」という奴と表裏一体だ。
この数十年、とくにこの数年、我々の社会でアレルギーが暴走してはいないだろうか。
これらのアレルギーの原因は「環境ホルモン」だ、と言われている。
そうかもしれない。
だが、こういう話を聞くと、そもそも、これらの現象は、
そもそも人工密度が過剰になるだけで、引き金が引かれてしまうのではないか、という気がしてしまう。
*
「別に人口密度がこの数年で増えたわけではない」
という反論を受けるような気がするので、私の仮説を続けてみる。
これらの問題のトリガは
「主観的な人口密度」であって、
「客観的な人工密度」についてではないということが指摘できると思う。
曲がりなりにもIT産業という奴で食っている私が言うのもなんだが、
「IT」という奴、「労働の自動化」という奴は、世界を完璧にしてくれた。
つまり、まあ、要するに、世界が過保護なのだ。完璧なのだ。
僕が子供の頃、ガンダムのプラモデルには色が塗ってなかった。
デザインも完璧でなく、いじりようがあった。
必死こいて接着剤を使い、足りないところは想像力で埋めていった。
だが、今のガンプラはほぼ完璧だ。
色もほとんど付いている。手を入れたら完成度が下がるだけだ。
我々は、買って、マニュアルどおりに作る。それだけだ。
あるいは、食玩をコンビニで買うだけかもしれない。
お金を払う。
ルールに従う。
それ以外にできることなど、ほとんど無いのだ。
世界の全てをビジネスにしてしまった、パラダイスの代償というべきか。
*
心理的な人口密度ってのは、そういうことだ。
100年前だったら、村で一番笛が上手かった奴は、それを誇りに生きていけた。
50年前だったら、都会に出て行って、自分と同等以上に上手い人とあう。
現在では、CDを聞き、インターネットで世界中の情報を見て
絶望する
イチバンにはなりようのない世界。
上には上がいる。それは昔から一緒だ。
しかし、世界で一番上の情報が、いきなり目の前にさらけ出される。
階段を何段登ればそこに追いつくのか?
*
「いきなり上手くやろうなんて無理に決まっている
下積みをじっくりやってだんだん上手くなっていくんだ
それが間違いの元だ」
ある程度歳を取り、技術を身につけた先人はそう諭す。
正しい。確かに。
だが、その人たちも、今現在、身に着けた技術をリセットさせられて、同じことが言えるのだろうか。
社会的身分をリセットされても、雄雄しく生きていくためには、結構大変な世の中だ。
僕自身、たとえば、絵を描く能力をリセットして、一から覚えなおす気力が
あるかといわれると・・・
自信が無い。
子供の頃に「絵が上手い」と言われていた。
実際には、子供の頃には絵の能力なんて50歩100歩だ。
でも、そういう根拠の薄い自身からスタートして、どうにか続けてきた。
その結果、今それなりには絵が描ける。それだけなんではなかろうか。
仕事でやっているプログラミングも、そうだ。
僕は、ベーマガと言われた雑誌に印刷されていたソースコードをチマチマ書き写して、ゲームを遊んだ人種だ。だから、今でもゲームをやるより、むしろゲームを作るほうが好きな人間になってしまったわけだが・・・。
でも、当時はそのくらいの手作りプログラムで十分だったのだ。
Final Fantasyを手作りする気なんて、絶対に起きない。
*
今の世の中、中間の梯子が見えないモノが多すぎる。
にもかかわらず、世界のてっぺんにいる人間が身近にいるかのような感覚を常に与えられる。
メディアのマジックという奴か。
目端の利く人間は、自分が到達できる範囲を目ざとく目測して、その結果
絶望する。
これがまあ、「優秀なニートのつくりかた」だろう。
明らかに人より優れた能力があっても、「十分でない」と絶望感を感じて、全てを放り出してしまう。
僕もちょっとそういうところがあるので、よくわかる。
もちろん色んなニートがあると思うので、そういう奴ばっかりではないと思うが。
*
あれこれ考えると、ニュースのコメンテーターに同調して、「少子化問題」でおたおたするより先に、「健全な人口密度」を冷静に考えなおしてみるほうが重要な気がする。
すごく広い目で見ると、
・「健全な人口密度」をオーバーしているから、
・子供を生むという活動から離れる個体が増えて
・社会活動をしない人口(=ひきこもり、ニート)が生まれている
と、そういうことなんではないか、というのが私の最近の意見。
何しろ、ネズミであってもそれくらいの行動を見せるのだから。
もちろん個別に「どこそこに労働者が足りない」という反論はあると思うのだが、すごくマクロに見ると、そういうことじゃないかなあ。
・・・あんまり、根拠はないが、妙な確信がある。
*
では、どうしたらいいのだろう。
人間の個体間距離を保ちつつ、自分を維持する方法。
こういうとき、よく「身体性を取り戻せ」というフレーズが使われる。
考える量よりも、手を動かす量を増やす。
十分な回答でないが、一番マシな回答かと思う。
「達成することの喜び」だけを求めるのではなく、
「手を動かすこと自体の喜び」を取り戻すこと。
いきなり小畑センセイより絵が上手くなるわけがない。
でも、それは手を動かすことに意味がないことにはならない。
「自分を救う」ポリシーは、多分そんなもんだ。
だから、壮大なRPGゲームよりも、お手製のスパイスの効いたFlashゲームを、重視する。
私もお世話になっているが、素人お絵かきのための遊び場を提供する「朝目新聞」とか、お絵かき掲示板とか、そういう草の根的なものが、今後絶対に重要になってくると思っている。
確かに「ビジネス的」には重要じゃないだろう。
だが、「参与可能なサイズのコミュニティ」が数多く存在することが、「社会が健全であるため」に必要なのだ。
もちろん別に、ものづくりでなくてもよいのだが。
かつて、のび太の街には、土管のある空き地があった。
それは、自治体の提供したルール通りに消費する空間じゃあなく、ただそこにある「可能性」の空間だった。
所有者のいる土地を不法に利用していたといえばその通りだが、ルールから逸脱できる可能性の世界こそが「あそび」なのだ。「あそび」の無いシステムは、磨耗し、崩壊する。
*
もう一つ、
「人間の世界」を取り戻すために、私がしているささやかな抵抗。
人間を人間として扱うこと。
コンビニで疲れた顔しているアンちゃんは、コンビニの備品ではない。
マクドナルドで一生懸命スマイルするお姉ちゃんは、ロボットではない。
当たり前だが、ついつい忘れそうになる。
マニュアル通りの行動。だが、その裏には「中の人」がいるわけだ。
品物を渡されたら、軽くお礼を言う。
お辞儀をされたら、笑顔を見せる。
床屋でカットが上手く行っていたら、店員を褒める。
掃除のおばちゃんには、頭を下げてお礼を言う。
こういうことするとキモイ奴と思われているのかもしれないが、
こういう「抵抗活動」をやめるつもりはない。
人間はシステムの備品じゃないんだ。ということ。
電車で化粧する女子高生に全ての責任を被せてキレる前に、自分からできるささやかなことってのはあると思うのですよ。
昔よりも逃げ道が増えて、適当な理由をつけやすい時代ですから。
Posted by: オズマ at July 2, 2005 10:32 AMはじめまして。
ちょうど漠然と考えていたことが見事にまとめられており、すっきりしました。ありがとうございました。
遊び場の復権と言う構想は、負け意識を持たずに人が生きていくのに欠かせないとは思うのですが、ネット上で「遊ぶ」ためには常に何かのアウトプットを出しつづけていかないと、遊び相手がいなくなってしまうのが難しい所です。
自分の手の届く範囲で何かの表現を行うのは楽しいのですが、これをずっと続けないと、今度は遊んでもらえなくなる寂しさが襲ってくるような気がします。難しいです。
オズマさん、medtoolzさん、コメントありがとうございます。
私個人的には「勝ち負け」という相対値の発想よりは、「自分の成長」という発想を取りたいと思うのですが・・・。やっぱり現実にはそういう要素がキツク効いてくるのは仕方ないのでしょうかねえ。難しい。
modtoolzさんのサイトも、私のところと同様、更新タスク重そうですね・・・。
学生の方が開いている有名サイトが、社会人になって更新停止するなどの話を良く聞きますが、コンスタントな提供を維持し続ける義務・能力の有無、というのがアマチュアとプロの最大の違いかもしれないと良く思います。
こんにちは、はじめまして!
読んでいてとてもすっきりしました。
すごいです。何だか感動しました。
ここ最近ずっと私の頭を巡っていたことかもしれません。
と言うのも、私はまだ諦めてはいませんが、でも少し諦めかけていたのかも。毎日なにかをすることにです。
頑張ったとしても届かないんじゃないかなぁ。って言うのがありました。
でも無駄なことなど何もないですね。
うまく言えませんがその「手を動かすこと自体の喜び」って、夢中になることそのもの、ってことでしょうか。
今楽しいな。心が感じてるな!って、それが毎日生きるっとことだと思います。
例え全てが完成されていたとしても(そんなことはありえませんが)生かされて、なにかに時間を費やしているんですよね。
私たちは人間である前に まず生命体なんだなぁーー。
なんて思いました。
長くなりましたがありがとうございます。
面白い考え方ですね。
私としては、暴力的なメディア云々ってことを、提供者であるメディアが説教たらしくよく言うよな〜、って思いはずっとありました。
大学を卒業して数年経過しますが、明らかに短気になった自分がいます。学生時代に比べると、自分が存在する社会が大きく(特に、年長者の方向に)拡大しますよね。その中で、自分の限界を知ってしまうことも多く、実際、私もこの程度の才能で有頂天になっていたのか?って、思い知らされることが多いです。
また、学生時代の中でも、小学校、中学校、高校と上がって行くに連れて確実に社会(付き合う人の範囲)は広がりますよね。小学校の時は、かけっこが同学年では一番だったけど、中学生になったら自分より早い奴が3人もいた。ってな感じで。そんな経験を繰り返すことで、少しずつかもしれませんが、自分より能力が上の人に対する耐性みたいなのがつくのでないでしょうか?
ところが、最近の子供たちの社会は、いきなり世界レベルに広がってしまう。耐性を全く身に付けないままにそんなものを見せ付けられたら、やる気もなくしますよ。
スポーツの話で言ったら、小学校時代なんかは世界レベルが憧れで片付けられるかもしれませんが、本格的に部活の始まる中学生になると、愕然としますよ。
ま、耐性って言葉が上手く言えませんでしたし、文章の終わり方も尻切れトンボみたいになってますが、私の言いたかったことは伝わったかな?だから、どうせいって言えるもんじゃありませんが・・・
あと、ささやかな抵抗ってやつですが、そういう風に意識したことはありませんね〜。ごく普通にやってますよ〜。では、長々と乱筆乱文で失礼しました。
にじこさん、Jさん、コメントありがとうございます。
「耐性」というのは、「あせらない」ということとかなり絡み混じっていて、現代では社会の競争力を加速させるためにありとあらゆるプレッシャーがかかっているので、腰を構えるには厳しい環境だと思います。(私自身も含めて。)特に日本人は、他人と比較されて評価されるのにめっぽう弱いので・・・。
まあ、抽象情報として「刺激」が与えられているならば、「自分の体」「目の前の人間」に重みをおくようにすれば、自然と社会からの刺激が脳に与えるプレッシャーは弱まるんじゃないかと思ってます。そういう意味ではwebって抽象情報の塊だから、諸刃の剣なんですよねえ・・・。
>抽象情報として「刺激」が与えられているならば、「自分の体」「目の前の人間」に重みをおくようにすれば・・・
その通りかと思いますよ。例え絶対的なものを見せ付けられても、自分に出来ることを精一杯やるという考え方を持てれば、プレッシャーは弱くなるかと。
抽象的なものでも自分なりに解釈できれば、それは有益なものになりえますし。逆に、解釈を間違えれば、自分にとって不利益なものになってしまう。そのあたりの「判断力」ってのを、少しづつ身に付けていくのが、義務教育(学校という社会)じゃないかなぁと。だから、先生とか同級生がうっとうしいとか言った理由で登校拒否になる奴が事件を起こしても、その責任をメディアに求めるのは疑問符がつきますね。
逆に、WEBを含めたメディアに携わる人は、以前に比べて、判断力を十分に伴っていない子供が見ることも頭の片隅に置いておく必要があるのではないでしょうか?市川某さんが言ってたのですが、最近のTV番組は「品がない」ってのはあながち間違いじゃないかと思いますよ。
Jさん
>判断力を十分に伴っていない子供が見ることも
>頭の片隅に置いておく必要があるのではないでしょうか?
どう・・・でしょうね。
「頭の片隅においておく必要」は当然あると思います。
「怪我をしない無難なもの」にするべきか。これは難しい。
アメリカインディアンの子育てで、早いうちに「ナイフで怪我をする」という体験がナイフを使いこなすために必要である、という考えであった気がします。
「バガボンド」で、沢庵和尚が小次郎に自分の剣で傷をつけてやるシーンがありましたが。
まあ、それをWEBやメディアに適用するというのは違う気もしますが。
…もう少し、考えを纏めてみます。
どうもはじめまして
ふっと読ませてもらって思ったことですが
ビジネスでいうと昔は局地的な営業活動が主でしたが
だんだん輸送技術や通信手段が向上され、広域での
営業活動が多くなりました。
個人営業のお店でもインターネットで全国・全世界に
営業が可能ですよね。
営業戦略もブランドとしての統一化と各土地の風土に
合わせたサービスの充実を必要としていると思います。
企業の担当領域が広くなったことでストレスも増えたことでしょう
そして今度は個人の行動範囲が広くなってきた。
肉体的行動範囲だけでなく、情報入手・配信の行動範囲が広くなりました
それもそれほど苦労しなくて入手できる
それが身につけばいいが、簡単に取得できるものは忘れるのも早い
情報が正しいか正しくないか個人個人が判断する必要があるが
情報源の信憑性が保証されていない場合はどうするの?
携帯が普及していつでもどこでも相手と連絡がとれる
縛られてるような、相手を縛ってるような・・・。
すばやく連絡がとれるので、相手にもすばやい行動を期待してしまう。
精神的なストレスが増えていると思います。
やはりまだ人は大量の情報の波では溺れてしまうような気がします。